「どりしげ」というメインブログも運営しております。よければ次のURLをコピーペースト、検索してみていただければ嬉しいです。宜しくお願い致します!⇒https://0dori.work/

ー特別編ー就職27年目にして退職を決めたボクの決意とは(その5)

f:id:dorishige:20211107072150p:plain

(その4より続く)

実家での居候生活が始まって約1か月の5月末、ボクにとって大事件が降りかかる。

 

ある土曜日の朝、一戸建ての実家でずっと使われてなかった2階の和室を拠点にしてい

たボクは。何も考えず階段を普通に降りていた。

 

いや、今思うと普通ではなかった。

 

いつも歩行時に装着するはずの足装具もつけず、しかも朝一というころもあり、半分寝

ぼけていたのもあったのだろう。

 

階段もあと3段で終わりというところで、な、なんとバランスが崩れ、臀部を軽く階段にお尻から座り込んだ、つまり、軽い尻もち、いや、軽くストンとお尻が落ちた感覚。

 

すると、「バキッッッッッ!!!!!」

何とも言えない体の中から劇音が!!

 

「何だ!???」と思った直後からとてつもない激痛が自分の右足を走っていくのを感じた!!

 

それは同時に何とも言えない「不安」という暗雲があっといいう間にボクの頭中を覆い尽くした。

 

「やばい!!」と思った時はすでに遅し。

 

そこから立ちあがろうにも、痛すぎて立ち上がれない。

ましてや、歩くなどとんでもない!!という感じ。

 

それは「自力の移動不可」ということを決定づけた。

 

1階のベッドで寝ていた父親がこの事故時のボクの異変に気づき、そこからは死角で見えない場所から「どうした?大丈夫か??」と心配な声掛けが。

 

とたんに、父に心配かけまいと思ったボクは返事こそ明るい何でもないような声で「うん、大丈夫大丈夫!」という言葉を発していた。

 

しかし、立ち上がりもできないボクは、座りながらそのまま後ろ向きにさっきまでくつろいでいた2階の部屋まで、なんとか精一杯の力出して必死に来た道を戻っていったのだった-。

 

痛みをこらえながら・・・(泣)

 

さて2階部屋へ戻っても、和室だけにそのまま地べたに座るのだが、これが激痛でなんとも普通に座れない。

 

ボクはすぐ横にあった机に手をついて、なんとか右足をかばうようにして座ったものの全く痛みはひかず、思わず脂汗が出るほど。

 

そこで結局数時間そこからうごけず、トイレに行くのもおっくうになるほどの痛さで、その日は結局のた打ち回って終わりました(笑)。

 

さらに追い打ちをかけたものは、その日が「土曜日」だったこと。

 

自分の中では、この時点では骨折とは「まだ」認めていないということもあり、病院へ緊急でも行こう!とはならなかった。

 

なぜなら、自分の主治医の外来診察担当日が毎週月曜・火曜だという理由にこじつけて、とりあえず今日明日の土日を様子を見たいというかすかな望み(⇒一晩足を休めたら、歩けるようになるんじゃ・という、今思うとありえない期待(笑))をかけて、とにかくなんとかそれまで乗り切ろう!と考えた。

 

とにかく、この痛みをなんとかしなくては!とまず行動したのが、頓服用で持っていた市販の鎮痛剤を飲み、気慰め程度の痛み抑えで、どんどん熱感を帯びてくる右足を恨めしそうに凝視していました・・・。

 

階段上り下りするにも、というか、そもそも階段上り下りできないでしょ!っと突っ込まれるような状況(笑)ながら、なんとか立たずに、しかも痛みを最小限に座りながら階段を上り下りする方法を自己流に編み出しました(笑)。

 

そんな日々に限ってなかなか時間のたつのが遅い!のですが、なんとか迎えた翌週の月曜日。前述のように私の通院している大学病院主治医である整形外科担当医の外来受診日だったのですが、「まあ、明日火曜日もそう(受診担当日だし・・:)という恐れと甘えが出てしまい、結局その日も病院に足を向ける勇気はでなかった。

 

そして迎えた火曜日!今日をやり過ごすと結局入院レベルで受診することになれば、色々時間もかかるし、厄介なことになるっ!とボクは覚悟した。

 

その日は寄りにもよって、朝から結構などしゃ降り(笑)。

 

しかしそうも言ってられない、かといって事前電話をしても今日は予約一杯だろうし、すぐには予約できないことは百も承知だったので。飛び込みでなんとか午前中で締め切ってしまう受付時間に間に合うようにして、なおかつ松葉杖でぐらぐらの右足をかばいながら電車に飛び乗った(笑)。

 

しかも単身だったため、ヘルプする人もいない中、もう今ではどう乗り切ったのかわからないくらいのシビアなものだった(笑)ー(その6へ続く)。

 

ー特別編ー就職27年目にして退職を決めたボクの決意とは(その3)

f:id:dorishige:20211011075147p:plain

 

さて、この特別編もすでに3回目を迎えた。前回はちょうど、ボクがつい先月まで在職していた職場の復帰初日でのパニック症状から、結局そのままの勤務継続が厳しくなったため、出勤も任意によるものになった。

 

実はその面談で決まった直後から、ボクはもう明日の予定されていた出勤の可否について心配という不安に襲われていた。怖かった。

 

そして次の日、やはりその不安は的中した。朝になると、いてもたってもいられなくなる気持ちすきがボクを襲い、すっかり心はそわそわしながらも、ヨメがパートにいき、子ども達も学校ということで、一人である気楽さで午前中ずっと布団にもぐりこんでいた。

 

何もしたくなかった。何も考えたくなかった。

 

結局午後になっても不安な気持ち入れず、事前に出勤できないときは連絡を入れることだけは忘れずにと思い、自分で連絡をいれた。

 

ほっとした。

 

と同時に、この時、ボクは直感した。

 

「あ、またこれ休職するのかも・・」と。

 

そして、その予感はこの日の晩には的中することになる。

仕事から帰って来たヨメの「これはいよいよ復帰できないかもね。」という言葉につづき、結局どうするのか答えを迫られた。 ボクは、ありのままに今は出勤に自信がないことを伝えた。

 

ヨメは一息ため息をつき「わかりました。 そしたらもう休職するとして、その間の生活費はたちまち困るから健康保険の傷病手当金を申請してほしい。 こちらは、自分の給与も少しでもあげれるようパート時間を長くしたり、新しく職を探すか・・。 次男については、まだ高校受験を控える身。 こっちは子供達のこともあるし、手一杯だから、自分(ボク)まで手が回らない。 だから、(ボクは)実家にいって(同居の兄に)食費だけでもなんとかならないか頼んでみる・・・」と。

 

「ボクは実家へ行くことになる、ということは「ここ」を離れるということか~?」と思うと「ちょっと待って」という言葉が思わず出た。

 

ん?出たのか7あまりにも衝撃過ぎてよく覚えていない(笑)。

 

ただ、何らかの抵抗(笑)ともいえるアクションは起こしたと思う。

 

しかし、ヨメはボク以上に、もう一緒に一つ屋根の下にいることが限界だった。

 

というのも、ヨメとは結婚して20年を越えるが、いつしか「夫婦」というより、単なる生まれてきた二人の子供がつなげる「同居人」というほうが正しいほど、夫婦仲は冷めていた。今思うと、ボクのこの「発達障害」ならではの多動性の落ち着きなさなどあったが、何よりもヨメには金銭遣いの荒さが相当なストレスになっていたような気がする。

 

基本、ボクの場合、小遣いをヨメからもらう。つまり生活費などの金銭管理はヨメ管理だ。だからというか、ボクはただ毎月もらうお金を自由気ままに使っていた。足らなくなったらある程度工面してなんとか生き延びようとするが、どうしても乗り越えられないときがある(笑)。そのときは、頼むなら「ちょっとお金が足らない」ということをボクも言えたらよかったのだが、ボクにも変な意地や恥ずかしさ(お金管理ができないと思われたくない。かといってもう少し小遣い額を上げてと言ってもそんな余裕はないと一蹴(笑)されるだけだ・・とか)があった。

 

ではどうするのか?

 

その場しのぎのあることないこと(つまり嘘)言って(仕事で必要なお金がある・・など)、とりあえずのお金を必要資金として出してもらう。当時はそれで過ぎていたからうまくいったと思っていた(笑)。自分で「なんでここまで・・」と切ないなと思いながらも「これが現実だな」と、どこかでそれほと良いとは思えない収入でやりくりしてくれている、ヨメへの妥協をしている自分もいた。

 

しかし、ヨメは分かっていた。それがその場しのぎで対応したボクの嘘も何もかも。でもその時には言わなかった分、確信犯的に起こしてきたボクの「前科」を一気に連ねていったのだった(笑)

 

そういったこともあり、ボク自身も「もうこれ以上ヨメを苦しませたくない。」「ボク自身ももう息の根がつまるほどヨメと一緒の生活がしんどくなってきていた。

 

「今はお互い距離を置いたほうがいいのかも・・・。」と。

 

最終的にボクはそのヨメの要求を飲んだ。そして1か月後、必要最小限の荷物を持ってボクは自分の自宅を後にしたのだったー(つづく)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

-特別編-就職27年目にして退職したボクの決意とは(その2)

f:id:dorishige:20211005090356p:plain

(前回その1よりつづく)

さて前回のつづきとなるのだが、皆様は「そんなこと覚えていない!」というお叱りも受けそうであるので、場面説明をおさらいしておくことにしよう。

 

ーボクが今年1月からの右足の人工関節置換の手術を受けた入院による休職を経て、復帰したその日に3月中旬、職場へ復帰したその日に過呼吸などによるパニック症状を起こしてしまい、その晩にいてもたってもいられなくなったボクは、熟睡するボクのヨメに泣きつく始末。

愛想をつかしながらもボクのただならぬ異変に心配を抱え、ヨメにひきつられ職場へ一緒に付き添い。ボクの直属上司に面談を申し込んだのだったー。

 

ざっとこんなところだろうか(笑)。

話を先へ進めよう。

職場の面談室というか、3人も入るといっぱいになりそうな小さな部屋に入り、まともに上司に目線も合わせられなくなり、首もうなだれているボクに代わってヨメは昨日のことも含め、今後の対応について相談を始めた。

 

実は、直属上司とボクのヨメとはこの日が初対面ではない。ざっと遡れば遙か20年前のボクたちの結婚式での職場の2次会を開催してくれた幹事役の一人だったわけであるので、その時以来だというと長い間ということもあるが、ボクの知らない間に、ボクのこの居眠り問題などの相談をしだしたのは、昨年になってからだ。

 

ボクは昨年1月にも、仕事中に極度の鼠径ヘルニア(ご存知だろうか?ボクくらいの中年男性に頻発する、いわゆる鼠蹊部をよばれる脇腹下あたりに他ある直腸がそれを覆う鼠蹊部の膜を圧迫、それが破れて腸が飛び出てしまう病気だ)による極度の腹痛に襲われ、施設に居合わせた看護師の方のヘルプで提携病院へ救急搬送されたことがあった。それはもう叫ばずにいられないほどの激痛で、多少のことは我慢強いと自画自賛していたボクでさえ、我慢できず脂汗が垂れるなか、飛び出た直腸をひっこめるべく腹腔内鏡カメラと開腹による緊急手術を実施。もう少し手当が遅れたら手遅れだったと主治医に言われた。要は鼠径ヘルニアの中でも最悪の陥頓(かんとん)という、患部が浮腫みきって、飛び出た腸が戻らなくなっていたそうで、放置すると腸も腐っていっていたらしいとのこと。そんなこんなでまた、なんとか一命をとりとめた。結構以前から直腸の脱調具合に違和感を感じながらも、自分でそれをひっこめて我慢して無理して業務を続けた結果だった。その際に、心配したボクのヨメが直属上司に病院対応に訪れたことを機に、普段のボクの勤務態度であったり、睡眠障害的症状も出ていたことなど何かと相談していたようだ。

 

そういう間柄もあり、ヨメが直属上司に相談するのはあまり堅苦しいものでもなかった。しかし、そんなことよりこのときのボクはそんな余裕もなく、ただ上司の体調を心配してくれる呼びかけに「はい・・・」と声になるかならないかの返答をするだけで精一杯だった。

 

一方ボクのヨメは直属上司と話を進めていき、いわゆる職場でのボクとスタッフとの信頼関係の崩壊、はたまた普通仕事上では考えられない行動(業務中に菓子類をほうばる、ごみを落としまくる・・・などボクが罪悪感なく行っていること)といったモラル観の欠如・・などの話を聞いた上で、ボクのヨメは、ボクの現職である「ケアマネージャー」の適正について話し始めた。

 

ボクの直属上司は、この職務に限ったことではないが一般的に必要と言われている「マルチタスク」「時間管理」「デスクの書類整理」「電話対応の仕方」ーそしてもちろん「業務中、会議中のありえない居眠り、寝落ちのことー。そんなボ手クが耳を塞ぎたくなるほど恥ずかしい内容の会話の果てに、ヨメはこのように話を切り出した。

 

「主人(ボク)はケアマネという職には向いていないんだと思う。このようなことを繰り返すばかりではこちら(職場)にも迷惑をかけるのを今後も繰り返すだけならば、この障害のある身体と精神的に発達障害の疑いのあることを配慮してもらう障害者枠での復職では無理だろうか?」

 

直属上司はその言葉に、しばし「うーん、そうですね・・・」と考えあぐねていた。その様子を見て、ボクはいたたまれなくなり、情けない、哀しい気持ちがこみ上げ、思わず涙声で「ボクは今朝Aさん(直属上司の仮名)に面談希望の電話をした際、本当に『もうボクは今日限りで辞職します!』といいそうになった。実際今でもそう思っています。もうこれ以上皆さんにご迷惑かけられないから・・・」と言ったきり、涙が止まらなくなった。

 

普段、感動してもあまり涙の出ないボクが涙を止められず号泣したのである。自分でも驚きだった。思わず上司が差し出してくれたティッシュでボクは涙をふきながら、上司からの有難い言葉を聞いた。それはー

 

「Oさん(どりしげ仮名)辞めないでください!Oさんに辞められたら困ります!」という言葉だった。

 

ボクは嬉しかった。それがたとえその上司がボクを落ち込ませまい、ヨメの手前上の配慮があっての言葉であったとしても、単純にボクはその言葉が有難い、救われる言葉としてボクの心の中で響いた。

 

結局、ボクはしばらく仕事は無理に出勤はせず、できるだけの時間で、周りに支障のない範囲の業務を考えてやってもらおうということになった。ただこれないときはそれはそれで連絡もらえればいいという配慮をいただいた。ボクは上司からの「それだったら仕事にこれそうですか?」という問いかけに、即答で「はい」とも言えず、なんとかというようなうなずきしかできなかった。

 

そんなボクの様子を見たヨメは「もっと自信持って、そんな時は嘘でも『はい!』っていわないと!」とハッパをかけられた。その塩対応もこの時のボクには変なプレッシャーしかかからなかったのだー(その3へつづく)。

 

-特別編-就職27年目にして退職したボクの決意とは(その1)

f:id:dorishige:20211004000759p:プレーン

 

 

令和3年9月30日。 この日を以て、大学新卒の23歳で入職したボクの約27年に渡る福祉施設職員の生活にピリオドをうった。

 

それに先立ち、実質3日前の27日に27年間出勤した職場への理事長始め、各部署などの挨拶、施設入居者さんへの挨拶、物品返却、離職手続き・・・・。

 

コロナ禍のご時世もあるので、密になる場面を避けながらの場面が過ぎていく。

 

そして、職場生活のすべてが終わった。

 

さてここで、ボクがなぜこの27年の社会福祉施設での27年間の勤務生活を終えることになったのか、そのきっかけと経緯を時系列に記して行こうと思う。

 

時は2021年1月にもどる。

 

元々ボクは身体障害者だ。 29歳の2001年で発症した右大腿骨の悪性腫瘍により、抗癌剤による化学療法、放射線照射を兼ねた手術などで、骨の腫瘍は幸い初期ということもあり、死滅させて命こそとりとめた。 しかしその代わりに、最終ボクの右足の骨は人工関節に入替され、筋肉を一部切除された障害の足になった。 それ以来、2003年以来肢体不自由4級の認定を受けた中途障害者である。

 

この人工関節には人工物の消耗品であるが故、耐用年数というものが存在するので、どこかで必ず限度がやってくると言われていた。 そしてこの18年の間、通算5回にわたる人工骨の入替手術を受けることになるが、この1月はその中の4回目にあたる手術の時期にあたる。 当然、休職を余儀なくされた。

 

通常は入院、手術となるとそれなりに自分には身体に負担、苦痛も伴うため正直非常に憂鬱になるのだが、この時ばかりは休職を迎える自分に正直ほっとする気持ちがあった。 なぜならその当時、在職していた職場でのボクの評価、特に周りのスタッフとの信頼関係がズタズタに崩れてしまっていたからだ。 それは紛れもなく、長年ボクを悩ませてきた業務中の自制できない居眠りが原因だった。

 

自分なりに、周りから注意指摘を受けるたびに猛省、再発予防の策を自分なりに模索をするが、状況は変わらずむしろ悪化、「怠け者、常識知らず」のイメージが固定化するのに時間はかからなかった。

 

そして休職の前日にも、上司からの叱責を受けたこともあり、この休職で一時的とはいえ、今の絶望的な環境からの逃避ができる意味でほっとした。 そして、このコロナ禍での手術もなんとか予定通り済ませ、直後から始まるリハビリの日々を過ごしながら、改めて自分自身を見直すことになった。

 

あっという間に退院の日になった2月末。 職場との話の結果、病院側のリハビリ療養の指示もあり、退院後の初めての再診検査結果次第で復職するとボクは決めた。 当然このときは復職するのに何の迷いもなかった、というより退職など、今の自分にはとてもできる身分じゃないと思い込んでいた。

 

ただ、休職前のその職場での「あの」状況がまた始まるのかと思うと、憂鬱さと足がすくむ暗い気持ちになっていた。 こんな時ほど、退院後の休養の日々はあっという間に過ぎていくものだ。

 

そして迎えた再診の日、検査も異常なかったものの、もう少し足のリハビリが必要という主治医の助言もあり、もう少し休職できることに、やはりほっとしている自分がいた。

 

しかし、無常にも日はすぎていき、復職前の挨拶に職場へ行く日がやってきた。 何ともいえない緊張、不安。 上司からは復職に向けて改めてアウェイともいえる、職場での逆風が巻き起こっているという報告をボクは耳にしてしまう。 そしてこのことがさらにボクの復職への足を鉛のような重さにしてしまった。

 

案の定、ついに復職を明日に控えた前日の晩、一睡もできずに復職当日の朝を迎えた。

 

たまらなく緊張、不安、恐怖が・・・。 そんな中でも、家族にもそんな顔を見せる勇気もなくこわばった表情のまま、ボクは家を後に職場へ向かった。

 

なんとか職場へはいくことはできた。 しかし、何かがおかしい。 職場の出会う人出会う人が挨拶はしてくれるのだが、なんかそっけなく感じる。 いや、今思うとそういう風に自分には映っていたんだと思う。 さらにその姿が、「今ごろ出てきやがって。おまえの居場所はもうねえんだよ!」 といっているように思えて仕方がなかった。

 

先日上司の言っていた「アウェイの空気がこれなのか・・・。」すぐにボクの頭の中をかすめた。 そう思うともうそこにはいられなくなり、人気のないところへ思わず避難して、膨大にデスクに積まれた自分の休職中の申し送り事項など、遅れを取り戻すべく情報収集にとりくんだ。 だがどうだ。 全く頭に入らない。 おまけに数年前に経験して以降、薬で落ち着いていたはずの過呼吸症状が出てきて、時々事務所へ入ってくるスタッフに対して、ボクはその異変に気づかれまいと必死に笑顔で対応するのがやっとだった。

 

結局復帰初日はそれだけで勤務時間は過ぎ、明日から改めて頑張ろうと思い直そうとするも、こんなんでやっていけるのか? という不安がそれ以上に押し寄せる。 自分の中でもやもやが止まらず、息がつまり、たまらず「うわーーーーーつっ!!!!!」って誰もいないところで叫びたい気持ちにかられた。 それだけで精神的にもくたくたになり、なんとかかんとか家路にもついた。

 

翌日は休みだった。 というよりも、シフトを組む上司にボクから復帰したては疲れると思うので一日おきにしてもらうよう配慮を願い出ていたのだ。 しかし、もうすでに明日の出勤がすでに不安になって、昼前になっても布団から起きたいと思わず、やる気もおこらずごろごろしていた。 完全にうつ症状の再発そのままだった。

 

ボクの不安は一日中収まらず、何も考えずぼーっと頭に入ってこない録りためていたビデオの画像をすっと見て不安を掻き消していた。 しかし、いよいよ寝る時間になる。 しかし、全く眠れるわけでもなく、日が変わった夜中にたまらなくなって、寝ている嫁をたたき起こした。 それは今までのこの不安な気持ちを伝える中で、当初、副業をして家計を助けるべく意気込んでいた講座に高額資金をカード払いしていたという事も全部うちあけた。

 

いつも冷静客観的考えを述べるヨメもさすがに、寝ているところを無理やりボクに起こされたことも手伝い、珍しく感情的な「怒り」の気持ちをぶつけてきた。 そして結局は、明日勤務に行く自信がとてもないボクの打ち明けに失望のため息をつかれながら、ヨメが一緒に付き添って職場についていくことになった。 いや、むしろ付添してもらう幼稚園児のような情けない気持ちでいっぱいのボクだった。

 

そして翌日の朝、上司へあらかじめメールでヨメと一緒に行くので面談を希望、受理され、ヨメのあとへついていくように面談室へ入っていったー(つづく)。

社会人2年目。同僚Mくんとの衝撃的出会い。ー1996年ー

¥--f:id:dorishige:20210925195240p:plain

 

社会人になって初めての年が明けた。

 

巷では、日本では年末年始は、やれ仕事納めだとか、仕事始めだとか慌ただしくなりながらも、どこかで大体仕事はお休みになり「1年のうちのこの時期くらいは・・。」と、みな骨休みをするのである。

 

しかし!福祉業界(当然この業界だけでは100も承知、1000も承知、なんなら10000も承知(笑)。しかし、この時のボクにはそこまで考える余裕はなかった)は、年末年始も24時間稼働。それは新鮮だった。

 

晦日には、施設の夕食は年越しそば、正月3が日はおせち料理やお屠蘇もふるまわれる。やっぱり、より日本の家庭的な雰囲気を体感できるようになっていたな。

 

しかし!!スタッフ側としては、いわゆる家庭でいうまったりのんびりとはいかず、入居者がもちをのど詰めないように吸引器スタンバイでハラハラしつつ介助してましたね。

 

こういった福祉現場も、勤めていると医療現場にはつきものの緊急時(有事)というのは、1年も経つと、一度や二度は大抵出くわす。そんなバタバタ感、やるっきゃないという場面の経験の積み重なりで、いつの間にか昨年から悩ませていたボクのパニック症状は一時的に消え失せていた。いや、今考えると一旦裏に影を潜めていただけだったんだが。

 

そして、あっという間に一年がすぎ、また社会人になって2年目を迎え、ボクのように新卒職の後輩が・・・といいたいところだが、まだまだこの時は施設自体も2年目でまだまだひよっこだった。新卒というか、主に施設経験者の中途採用のスタッフが入ってくることが多かった。

 

その新入職員の中に、今でいうイケメン枠、ちょいやんちゃ系(笑)の保育士所有の男性(当時のボクの年齢24歳の2つ下だったから22歳だったかな)がいた。

 

この男性(仮にMくんとしよう)との出会いが、今後のボクの人生に大きな影響、刺激を受けることになるのだが、その時のボクには知るすべもなくえらそに先輩風ふかしていたボク。ああ若気の至り(笑)

(つづく)

 

 

27年前のボクは社会の何も知らなかった26歳の若僧だった。

f:id:dorishige:20210919225542p:plain

 

(前回その1よりつづく)

さて、入職後半年経った1995年の秋から、ボクの心身に異変が起き始めた。同じ職場内の配属フロアの異動をしてからだ。

もともと子供時代から、学校のクラス替えなど自分の取り巻く環境変化というのに弱かったと思う。

必ずといっていいほど環境が新しくなってからしばらくすると、なかなかなじめずに学校へ行きたくない病にかかる。いわゆる「5月病」といったところか。

その度、無理くり学校へ行かせようとする母親をいかに仮病などでいいくるめて、今でいうプチ登校拒否などをやらかしていた。

しかし、根が気が弱いこともあり、そうもしてられないという罪悪感にさいなまれ、意を決して学校へ通ううち知らぬ間に慣れていくのだが、そのころにはすでに1年たっており、またクラス替えというサイクル(笑)。

でも、今回は初めての社会人としての環境変化になじめない事態。学校みたいに休むにも他のスタッフに迷惑がかかる。そのため、なんとか頑張っていくのだが、だんだん昔できた業務でさえ、パニックになりできなくなっていった。

その度、最初は他の慣れたスタッフの人にカバーしてもらいつつこなしていくのだが、それがまた焦りやプレッシャーを募らせる悪循環に陥り、さらに自分で自分を追い込んでいった。

スタッフの中にも、合うスタッフと合わないスタッフが出てくる。合わないということは「苦手」ということだ。ある日、その合わないスタッフとの2人夜勤の日があった。当日になって、何ともいえない恐怖と不安に襲われたボクは、そわそわ落ち着かなくなり、本当に出勤できなくなってしまい、直前で迷惑覚悟で、体調不良の欠勤連絡をしてしまった。

その時の休んだあとの罪悪感は今になっても、胸がしめつけられるほど苦しくなる。

そうやって、それまで入職以来支えていた仕事への熱意とやる気はどこかへ消え失せてしまい、社会人1年目の年末ごろまで苦悩の日々が続いた。(つづく)

 

 

 

今から26年前のボクー1995年ー

f:id:dorishige:20210915010700p:plain

ども。どりしげです。

前回の予告通り、今回よりボクが歩んできた26年間を振り返りますです(笑)。

 

時は1995年。阪神大震災が関西を襲った1月17日の直後の2月下旬に、ボクの勤める社会福祉法人の運営する高齢者福祉施設が大阪で産声を上げた。

その時、ボクは23歳。一浪で入った外国語大学の4年生で、その新設施設への内定が決まっていた。

そのため、何かと開設準備や当直のバイトやらで、震災時に味わったことのない恐怖を覚えた余韻もつけないほど多忙な日々を送っていた。

大学で専攻した語学系の仕事には進まず、全く畑違いの福祉分野に足を踏み入れようとしていたボクは、入職時に採用の決め手になった施設長の「君の福祉に対する熱意を信じて、採用スタッフ中唯一、福祉系出身以外の人も入れてみた。」という評価を糧に、初めての社会人としての仕事に意気込んでいた。

実をいうとボクは、これまで全く福祉の仕事をしたことがなかったというわけではなかった。

大学在学中に就職活動中に出会った兵庫県内の特養施設に大阪から片道2時間半かけてボランティアでそこの介護スタッフの方々の補助業務でボランティアを体験させてもらっていた。

そこでは、入居されている方々のシーツ交換、食事介助、汚物処理、おむつ交換、車いす誘導、入浴着替え介助・・・などなど目新しい体験をしてきた。

だからというわけではないが、ボクは全くの初心者ではないという今思えば脆い、へなちょこな自信があった。

しかし、今回の就職先の施設の開設式が終わり、真新しい建物の匂いの残るこの高齢者施設に入居希望の方々が入居してくると、その脆いボクの自信はガラガラガラと見事に音をたてて崩れていった(笑)。

当時は、介護保険の制度もなく、入居希望者は自分で入居施設を選べない行政による措置の時代。

だから、連日2名づつの入居者が、役所スタッフに連れられてどんどん入居してきた。

その度に渡されるフェイスシート、いわゆる入居者の人となりが書かれた履歴書のようなものを渡され、面談に立ち会い、現場へお連れして、早速の実践。

新設の施設だから先輩も後輩もない、新人研修もなく即実践の日々。

当時、健常者だったボクはこの6年後、右足の身体障害者になることもつゆ知らず、一人夜勤もこなす介護スタッフとして配属され、見よう見まねで周りの業務経験のあるスタッフに、布おむつ(今は姿を消したが当時はレンタル業者により布おむつも取り扱っていた)のセット、巻き方の方法から覚えていった。

昼夜問わない不規則な仕事にも、意外とすんなり馴染んだボクは毎日、やりがいを感じて勤めに励んでいた。

そんなボクに、最初の異変が見えたのは、入職して約半年後、同じ施設内の別フロアへの初めての異動をしてしばらくしてからだったー。(つづく)