ー特別編ー入職27年目のボクが退職を決意した理由とは(最終回)
さあ、いよいよだ!
ついに!!
来ましたよ!!!
最終回!!!!
では、早速行きます~!!!!!
ボクが退院したその日、入院中に手術により新たにリニューアル版が作成された患足の補装具などをはじめ、荷物も入院時より確実に増えていた。
それは、明らかに当然一人での退院となるボクにとって、杖歩行の自分にもてる荷物の許容範囲を大幅にオーバーしていることを意味していた(笑)。
なので、退院直前にもてない分の荷物は、院内の郵便局より、再び居候する実家へ郵送し、ボクはもてる最大限の荷物を背負い、長い帰路を辿った・・・。
そして、とうとう再び実家へ戻ってきた!
が、しかし、ゆっくりするまのないほどボクの頭の中はこれからの課題は山積みだった。
そのボクの頭の中をパカっと開いてみると、ざっと次のようなものが見れた、と思う(笑)。
〇さて、いつこの実家を出よう・・?(要は元の自宅へ帰るか、新たに一人暮らしの住処を探すか・・・)
〇今後床に座れない「洋式生活」を実践すべく住環境の改善が必要・・・
〇休職中の今、いずれは復職するのか、それとも退職するのか・・・。
その他、諸々・・・。
頭はパンク寸前だった。
その後、自分が自由にできるお金も底をつき始め、ひどいときは電車代など移動するにも工面せねばならない始末・・。
愛用のウクレレも泣く泣くリサイクルショップへ売ったにもかかわらず、買取価格はスズメの涙・・。
そんななけなしのお金を使い、再びボクは今後一生のつきあいとなる、発達障害のことを掘り下げるため、支援センターへ通う日々ー。
そんな中、職場より思わぬ1本の電話がかかってきた。
それは紛れもなく、いずれはボクの「行く末」を決定づけたきっかけになるものだった!
その電話の主は、意外にも休職前まで、あまり親しいとはいえない、寧ろ自分が苦手としている人事部担当の男性職員Fさんだった。
どうも聞くとこによると、ボクが休職して以来半年がたち、ボクの知らない間に進められていた上層部の「そろそろボクが復職か退職かの決断をする時期」だという、ボクへの促し役になっていたFさんへの度重なる催促をうけていたという。
その際、もう復職は無理だなという簡単なあきらめモードの含んだ上層部の物言いに、Fさんは頑として抵抗、ボクの実力の可能性を信じ、もうちょっと待ってもらうよう上層部にかけあってくれていたとのこと!さんのボクへの促し役になっていたというのだ!
結局はFさんの相談は
「それで(ボクは)どうする?」
という相談であった。
自分の身の振りようの決断まで、もう少し考える余地があると思っていたボクは、その場でさすがにすぐ決められず「考えさせてください」という言葉しかでてこなかった。
しかし、同時にボクが苦手であるうえに、てっきりボクを嫌っていると思いこんでいたFさんがボクのことでそんなに真剣に思ってくれていたとは思いもよらなかったので、そのことが本当にありがたく、素直にうれしかった。Fさんをボクは今まで誤解していた申し訳なさを心中実感しながら、何度も感謝のことばを述べていた・・・。
そしてさらに、Fさんの口から衝撃的な事実を言い渡された!
「まあ仮に(ボクが)退職したとすると、ウチ(職場)は、退職金というものが3機関の保険機関から出される。そのうちの最も高額の出される機関の(ボクの)退職金をこちらでシミュレーションで出せるサイトがあって、勝手ながら(ボクの)勤務年数から算出させてもらった」と。
「すると、勤務27年目の人は単純計算だが、合計800万以上もの退職金が出されるみたい。だから今家庭の経済面で困っているのなら、とりあえずはいったん退職して、目の前の経済面の問題を解決するのもひとつの手かも」というのだ・・・!!!!!
ボクは思わずその現実に耳を疑った!!!!!!
まさかこの、いまだに役職もつかないボクが単純に勤務年数だけ長いという理由だけで、そんな「宝くじにでも当選したかのような」額がもらえるものなのか???と信じられない気持ちだった。
しかし、それを手に入れられれば、確かに経済面のいくつかの現状問題は解決できるかと思われる。
さらに退職すれば、組織へのしがらみで今までできなかった転職活動の取り組みもできるかもしれないー。
そう考えると、ボクの心臓の鼓動は速くなり、緊張にも似た息苦しさが込み上げてきたーー。
それから約1週間、ボクはその間になんとか、ボクに「都合が悪い」と何かと会いたがらない様子の妻に退職金の話をメールで相談した。
妻は、ボクが退職することで、今の休職の間を支えている健康保険の傷病手当金の支給が停止してしまうのでは??と恐れたが、それは退職後も出してもらえること、自分は復職してもやまったく新しい職場でない限り、再び元のもくやみ(パニック発作)に戻ってしまうように思うことを事前に伝え、退職する決意を表明した。
最終的には妻も賛同してくれたこともあり、職場のFさんには、改めて「自分は退職することにします」と決心した旨を伝えた。
そこから、正式に退職することになった9月末までは、本当にあっという間だった。
退職に際しての次々の手続きがこれほど複雑で数多いものだということが、初体験のボクは改めて実感した。
しかし、同時に自分の中に湧き上がる退職後への形にならない希望、熱望が燃え上がった。
そしていよいよ、9月末の退職日を間近に迎えた直前の9月27日。
この日、総合理事長、いわゆる社長(会長?)であるNさんに退職届を提出。
そして、今まで在籍していた部署にお礼の菓子を配りまわり、会う人会う人に驚かれ、ボクの退職を残念がってくれた職員の人ひとりひとりとのたわいのないやりとりがここまでの偉大なものになっていたのだ。
改めてこの事実を実感したボクは、この27年間の重みをひしひしと実感したのだったー。
さて、これでようやくタイトルにもある「入職27年目のボクが退職を決意した理由とは」の答えが出た・・・。
要は「退職金」だ(笑)。
金目当てかよ!と言われるかもしれないが、やはり現実一番大きいのは、生活を成り立たせるのに必須のお金の存在なのであるー。
ーさて、そんなボクにとって、人生の大きな転機となったこの退職から約3か月が経過した。
結局ボクは退職日の翌日には、実家そばの賃貸マンションでの人生初の「一人暮らし」を始動させた。
今となっては、それが50歳の誕生日を間近に控えたボクの第二ともいえる人生の門出だった・・・。
これからも、この「門出」という「パズル」を構成する一つ一つの喜怒哀楽あふれる様々な「経験」という「ピース」は、どれひとつも欠けてはならない、言い換えれば無駄ではなかったということを改めて実感している。
そんな自分のこの「居場所」を大事にしながら、これから立ち向かう転職活動をはじめ、やはり新たに体験するであろう苦難にも、後に再び完成する2つめの新しい「未来」という「パズル」の「ピース」をつくりあげていくのだと感じれば、苦難もすすんで引き受けるという気持ちになっている。
ただ、ひとつ言えること、そして今までと明らかに違うのは、もう自分に鞭をうたない、自分をないがしろにしない、自分を犠牲にしない・・・そう、自分第一を正直に受け入れ、大事にする生き方。
ほかの誰でもなく、ボク自身のために!(終)
ー特別編ー入職27年目にしてボクが退職を決めた理由とは(その9)
(その8より続く)
さてそれからというもの、土日祝以外の平日朝は毎回リハビリテーションに明け暮れた。
まずは、健足(手術していない足)を使った体幹トレーニング(足あげ、臀部あげ、腹筋、ダンベル運動など。
そして、患足(手術を受けた足)のPTによる容赦ない他動運動。
だが、「あれ、変だぞ」。
患足の感覚があまりにも鈍すぎる。というか違和感。以前より確かに人工関節部分が増えて、結局は足付け根から足膝~すねあたりまでを3つの関節でつながれている。
しかしだ。
ぶっちゃけ、「誰の足やねん!」と突っ込みたくなるほどの他人の足感覚。
それほど力が入らなくなっていた。
まで以上に長い補装具をしっかり覆っているにもかかわらず、だ。
さらに、PTより患足の使い方の説明がなされていく。
「脱臼しやすいこと」
「足組みは厳禁」
「極端に前かがみにならない」
「靴をはくとき,かかとは手ではなく、靴ベラで足を入れる」
「立位から急に臀部を床まで降ろさない。」
「転倒に『より』注意!」
・・・・・・・・・・
マニュアル作成が必要だ(笑)。
おまけに、手術の度に短くなる患足の長さはさらに短くなり、健足との差も明らかにわかるように。
とうとう、使用している杖の長さも左右バランスを考え、長さを変えなければならない羽目に。
さらに健足と患足の使用する杖が今後決まってくるので、わかりやすいよう患足の杖に「ヘルプマーク」(いわゆる東京都より最初考え出された「赤地に白抜きで救急を表す十字とハートマークが描かれている札)をつけた。
これは、さりげなく公共の乗り物などで「席を譲っていただければありがたい」という無言のアピールをするためだった(笑)。
そんなこんなで、この後約1か月ほど。ただひたすら患足を元の「自分」の足に戻すべく(笑)、ただただ、リハビリメニューをこなしていった・・・・・。
そして、いよいよ待ちに待った退院。時は7月に入り、いやおうなしに夏がもう始まっていた・・・・。
(最終回(ついに!)へ続く)
ー特別編ー入職27年目のボクが退職を決めた理由とは(その8)
はtt
(その7より続く)
早くもその8まで来てしまいました・・・。大長編(汗)。それほど濃い期間だったということか・・・・(笑)。前置きはそれぐらいにして、本題にはいります、はい。
えっと、そうそう。いよいよ足の再手術も終わり、リハビリが始まったのだが、今回は今までとは「違った」ものがあった。
つまり、今回の再手術により、右足の足首より上が全て「人工関節」になった。
言い換えると、股関節に直接関節が触れることになるので、術前説明で主治医より、より脱臼しやすくなるという警告を受けていた。
同時にそれは、今後洋式中心の生活へシフトしなければならないことを意味していた。たとえば、今まで布団を床に敷いて寝ていた習慣をベッド寝起きに変更することからだ。
ただ、その心配より何より、右足を動かすこと自体が今までとは比にならないほどの「違和感」があったのだ。
言ってみれば、右足自体が「誰の足やねん(笑)!」といったイメージ。
さらに、その動かし方にもちょっとコツが要るとのことだったので、長年ボクの担当をしてくれていた理学療法士(以下PT)に、「脱臼を避けるための足の動かし方」たることを徹底的に聞きまくった。
もともと自分の分からないことを質問するのは得意ではないし、恥ずかしさでどうしても消極的なボクが、それをしないと自分自身が困るということが明らかだと、これだけ真剣、必死になるんだと思った。
自分がその変化に一番驚いていた。
今思い返すと、この頃からだった。自分が今の現職(福祉職:ケアマネジャー)から退くことを意識し出したのは・・・。
いよいよ身体の制限がさらに厳しくなり、もうすぐ50歳という、人生100年とすればまさに折り返し地点、つまり第2幕の幕開けともいえる。そんな自分が何らかの決断を出すのにこの機会を逃す手はない、と。
そのために、まずは再手術で蘇ったこの右足の使用法、つまりは「ボクの右足取扱い説明書」といったところだろうか(笑)。
それは、毎日の生活習慣から変えざるをえないことが出て来た。たとえば、かがんで靴のひもを結んだりする姿勢はNGとか。両足をクロスする行為がNGとか・・・。
改めて自分で自分を見直すことにもなっていったのだ・・・(その9へ続く)。
ー特別編ー入職27年目のボクが退職を決意した理由とは(その7)
(その6より続く)
さて、再度病院に再入院することになった当日、ボクは骨折して全体が内出血で腫れ上がった右足に重心をかけないように、なおかつ最低限にまとめながらも重くなってしまった入院の重い荷物をリュックに背負い、往路を急いでいた。
今まで電車で空席の保証のないまま利用していたが、今回ばかりは座っていかなければ足がもたない緊急事態ゆえ、まずは満席にはなりにくいバスのみを利用する作戦でルートを開拓、ほぼ電車を避けれる方法を見出し、いざ出陣。
が、早速自分をたちはだかる壁が!それは高速バスの出入り口の段差。
]思いのほか高く、杖を支えに上ることはできず、一瞬杖を脇にはさみこみ、バスのどこかに手をついて腕の力で体を持ち上げるという荒業に出た(笑)。
今振り返ると、我ながらよく一人で行けたもんだというほど、体幹バランスが問われるものであったが、普段より体幹バランス運動を行っていたことが功を奏したようだ。
3回ほどの乗り換えを経て、なんとかかんとか病院へたどり着いたのだった。
その時病院の車椅子を見るなり、すがりつくようにボクはすわりこんだ。
ほっとした。とにかくほっとした。
車椅子がこんなありがたいことはなかった。
片足を乗せながら、しかも前へすすめる。こんなに楽な方法があったのか?
と再確認できたのだ(笑)。
そんななかで週明けの病院らしくごったがえした空気の中で入院手続きを済ませ、荷物カートも借りて自分のずっしりした荷物を入れて押しながら、片方の障害の無い足でこぎながら車いす自走で、整形外科病棟へ無事入院した。
さあそこからの1週間後の手術まで、つかのまの快適時間ながら、今思うと長かった~(笑)。コロナ対策のPCR検査も異常なく、あとは手術を待つだけだったので、早くやってしまいたい気持ちと、やはり手術は怖い、逃げ出したいといった気持ちが交錯していた。
そんな手術待機期間も終わりをつげ、いよいよ再手術当日。いつものように、下剤を使ってでも腸の中をからっぽにさせられ、いざ手術室へ移動。ボクはこの時が一番緊張する。手術台へ乗せられ、血圧測りながら点滴をとり、徐々に入れられる麻酔が効き、うとうと意識がなくなるまでの間、ばくばく心臓がなっているのを感じる。
さあ、覚悟しろ!と言わんばかりに(笑)。
そして、ボクの中でははかない夢を見させられている間に(笑)3時間ほどの手術がおわった。予想どおり、ありとあらゆる管が体につながれている。やはり身動きがとれない。まあとりあえずは、無事手術は終わった・・・。
こうなったら、ほぼ8割がた恐怖は減る。もうこっちのものだ(笑)。
ただ、ここからが今までと違う「戸惑いの」リハビリの日々がボクを待っていたー(その8へ続く)。
-特別編ー入職27年目のボクが退職を決めた決意とは(その6)
(その5より続く)
このー特別編ーも、まさかのその6・・。いかに自分のこの退職決意に至る流れが1~2つの記事ではまとめきれないほどの濃い~ものだったことをひしひし実感(笑)。
さてさて、緊急で激痛の右足をなんとか松葉杖で浮かせつつ、時々はすわり場所をみつけながらなんとか3時間以上かかる病院までの道のりを激走、当日受付時間ぎりぎりで病院へすべりこんだ。そして、主治医の指示で受けた足レントゲン検査の後、ボクを待ち受けていた検査の衝撃の結果は・・・。
「あ~、(右足の骨が)折れてるね~(笑)」と、主治医の苦い表情・・・。
つまり、もともとの抗がん剤治療、度重なる手術で、人工関節を支えていた大腿骨上部の自分の骨が、ついに支えきれなくなり、今回の事故で完全に折れてしまったのだ!!
つまり、あの時の「バキッッ!!!!!」の衝撃音は、紛れもなく骨折の音だったことがこれで確定したわけだ(泣)。
ということは勿論、「これは手術でしか治せない!」との主治医の決断により、再び入院の確定。
そこからの怒涛の入院前検査。急遽、病院の車椅子を用意いただき、長年福祉職の経験で使いこなした車椅子自走の華麗なテクニックにより、自走で検査会場をぐるぐる回り、一日がかりで夕方すぎに入院予約をしてなんとか終了。
主治医はこの足の惨状から、今日からでもボクを入院させたかったようだが、入院準備もあるからとなんとかこじ開けてもらえた手術日の二日前に入院予約を済ませ、また帰りも死にもの狂いで帰宅。
絶望の中、我がヨメにも重苦しい再入院報告(笑)。「・・・・もう、カンベンしてよ・・・・。」とさじ投げ状態の一言。
「おれが一番カンベンしてほしいよ!」と思わず返してしまったボクは、それはつまり「わざと事故したわけじゃないし!」といういらっとした気持ちを「結局、結果がすべてだしな・・」という思いでおさえこんだボクの必死の対応だった。
同時に、「やるしかないな!」という改めてのボクの決意表明を決心させるものだった。
その日からというもの、ボクの実家での居候生活はさらに身体的に過酷なものとなっていった。
まず、実家の1階は父親の介護用ベッドで占められていた背景から、拠点を2階にしていたボクに避けられなかった最大の難所は階段。なんとか右足の負担痛みなく最小限にするため、座りながら、かつ杖を持ち運びしながら昇降する独自の手段を編み出し(笑)して、ごはんやトイレなどの度に往復していた。あとは、常に骨折の尋常でない痛みをおさえるために数時間ごとの鎮痛剤服用。
そんなこんなで1週間が過ぎた。骨折翌日から始まった骨折部分の内出血部位は、右足の大腿部全体を表側から裏側の順に、皮膚色が真っ青になり黄色くなっていくのをズボンを下ろす度に確認、ボクに起こっている事の重大さを実感(笑)。
そして「入院予定日までまだ1週間もある」とふとボクの頭の中に浮かんだ瞬間、すぐボクは入院予定の病院へ入院日の繰り上げをしてもらおうとスマホを手に取り、いつの間にか電話をかけていた。そして、このコロナ禍の非常時に奇跡的に入院前1週間目の日に入院予約ができたのだ。
今思い出すと、とんでもない日々を送っていたと思う。その日々のスポットライトは思い出せるが、細かいところはどうしていたのかは思い出せない(笑)。
それほど、過酷なものだったように思う。
そして、再入院となった6月中旬から7月までの1か月余りの期間、いよいよ自分の職場退職を決定づけるものとなるー(その7へ続く)。
ー特別編ー就職27年目にして退職を決めたボクの決意とは(その4)
(その3より続く)
前回(その3)より少し間があいてしまいました・・・・。ということで、「話の流れを全くわすれちゃったよ!」というおしかりを背中に感じながら・・。
気を取り直して(笑)、本題本題。
今年3月にボクは現職場を休職に追い込まれ、さらに家庭でもヨメから「自分(ボク)までのことを考える余裕がない。」とボクの実家への移住をすすめられる。
挙句の果てに、実家の兄からも「長期間の滞在は無理、うちにも余裕ないから短期間でなんとか戻るようにして。」ということに。
一文無しに近かったボクは、藁にもすがる気持ちで実家に居候感覚で身を寄せた。
目的はボクのメンタル面の療養でもあったのだが、ヨメとは距離を置いてさすがにメンタルも落ち着いたものの、実家は実家でそこでの主要人物になる兄に対しての気遣いが新たに加わった。
もともと人との関わりを極力もつのを避ける傾向にある兄は、血のつながった身内であるボクでさえ、元々実家には寄せ付けない人であった。
しかし実家には、現在大腸がんの術後にあり、ストーマという人工肛門、膀胱留置バルーンという尿管にカテーテル管が入った要介護状態である父も同居していた。
たまにその父の様子を観に来ていたボクにとっては、24時間体制で様子をみることができることもあり、その点ではボクにとっては安心材料であり、自分のメンタル面への気をそらせる材料にはなった。
そんな感じで、ボクの実家での居候生活は始まった。
自宅と違い、食事など妻に任せていた分はセルフサービス的になり、ある意味気は楽だったが、細かい点で、兄から自身で決めていた暗黙のルールというものがあり、そこのラインをボクが知らずに立ち入る行動をすると、兄の鋭い指摘が入った。
そのことがボクのメンタルには重荷であり、暮らし辛さの原因にもなった。
しかし、父の介護のことについては、まさにこの時は福祉分野の職業についていたボクには、兄も一目置いてくれていたこともあり、何かと相談しに来てくれたので、身体障害で直接的介護に制限もあるボクができる唯一の手助けになった。
もちろん、介護保険を受けている父には担当のケアマネジャーもいた。
だからあくまで、実際の父の今後のケアについて決めていくのはその人であり、主介護者である兄とのやりとりで決めてもらい、ボクは自分の療養を第一に考えるようにした。
とりあえずボクは、実家への転居前から相談対応してもらっていた発達障害支援センターに通いながら、自宅から持参したパソコンで発達障害のことをより深く知るべくネット検索で様々な情報を入手、無料でできる体験を中心にこなしていった。
それはボクをひきこもりになりがちな休職生活を外に開かれたものにすることができた。
そうすることで、ボクは月1~2回のペースで面会する職場上司と妻とも新鮮な気持ちで会う事ができ、一時的にパニックになっていたボクを落ち着かせていく要因になった。
そんなこんなで実家での生活にも慣れてきたボクに、まさかの大事件が起こる。5月末のことだった(つづく)。